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第一章 マイナス人頭税

すべての国民に一律、無条件で、同額の分配金を支給する。これに伴って現行の複雑多岐にわたる弱者保護制度は、いっさい廃止し、分配金に一本化する。分配金制度はマイナス人頭税であり、二十一世紀の税制の柱である。これが必要である必然性について、次に説明する。

税の定義

税金はなぜ必要か。個人では、できないか、叉は、政府がまとめてやる方がはるかに効率が良い公共サービスが必要であることは、言うまでもない。だから税金は必要である。これで一応納得される。ところが、これは正解ではない。

税金は所得の再分配のために必要なのである。公共サービスが目的なら、小中学校の授業料は、コストに見合うように定め、道路はガソリンを専売にしてその利益でつくるとか、すればよい。貧乏人に配るために、金持ちから、所得と、資産に応じて、出していただくものが税金である。

だから、実は行政サービスの代わりに現金を配っても良いのである。義務教育を無料にするのは、現金を配って、叉料金を徴収する二重手間を省いているだけである。

税は、かっては、支配者が人民からしぼり取るものであった。税という語には悪いイメージがつきまとっている。別の新しい呼び名を考えた方が良いかも知れないが、ここでは、民主国における税を明確に定義するのにとどめる。

税は、所得再分配の手段である。

自由主義経済と競争原理

人がもし神なら、計画経済が最良である。神ならぬ人間の社会では、競争原理が神の声である。適者生存の法則の下で生き残って来た生物は、造化の天工であり、きびしい競争の下にある企業は、スリムで美しい。

独占は腐敗と堕落を生み寄生虫に食い荒らされた無惨な姿となる。

社用の金を惜しげもなく使って、赤坂あたりで清遊しながら、ガマンの哲学を講じている老人方は、カルテルがお好きである。

競争社会の維持

経済的競争は一種のゲ−ムである。そして、そのゲームは、そのままでは間もなく終わる。敗者の持ち点が無くなれば、ゲームは続けられない。ゲームを定常的に続行できるようにするには、勝っている人に適当なハンディを課し、持ち点がゼロに近づいた人には、点棒を補給しなければならない。

もし、これをしなければ、ゲームは終り、清算して、点棒を再分配するか、ゲームそのものを止めるしかない。

富の再分配を伴はない資本主義社会は、早晩、行きづまり、戦争か革命が起こる。しかしながら、民主的政府は、戦争という清算手段を使はなくても、税制を通じて再分配を行い、競争を維持することができる。

社会保障と平和

経済競争は、命をかけた生存競争ではない。最も効率的に経済を運営する手段として、競争原理を利用しているだけである。従って、敗者にも常に復活の機会が与えられなければならない。

ところで、生きる権利は、生物の固有の権利であり、生きるために他の方法がないときは、殺人も許される。軍国主義は悪であるが、それしか日本の生きる道がないと信じていた人々にとっては、善であった。生きる権利を保証するのに充分な社会保障があって、はじめて犯罪は悪となるのである。

社会保障は平和保障であり、慈善や博愛ではない。財産の私有は、生まれながらの権利ではなく、ゲームのルールに過ぎない。富の再分配は、れんぴんの情にもとずく慈善行為ではなく、富者の義務である。

民主主義と正義

民主主義は、なぜ正義なのか、これまで自明のものとして来たが、ここでその根拠を考察する。正義は力なりと言う。強い者が勝つ、これが正義である。人間が家畜を食べるのが悪でないとしたら、人間より強い生物が現われて、人間を食用にしても、悪とは言えないだろう。人間どうしでは、数が力である。時代劇で、ヒーローが、ばったばったと悪人共を斬る、あれは芝居であって、ちゃんと訓練してから戦えば、どんな達人でも、二人のふつうの人に負ける。

独裁者が悪であるわけは、人民を騙しているからであって、本当は、人民の方がはるかに強いのである。故に、民主主義は正義である。数の力は、団結の力である。そして、団結の力は個人の尊重、ひいては小数派の尊重から生まれる。多数は小数の集合だからである。被差別階級をつくるのは、人民を支配する高等技術であり、これによって人民の団結を防ぐのである。

あの、いまわしい浅間山荘事件、「総括」と称して、次々と小数派を殺して行った。これでは、最後は二人しか残らない。全体主義は、小数派を迫害することで、民主主義と見分けられる。そして、全体主義は、これによって、必然的に自己崩壊の道を辿ることになる。所得の再分配は、団結を守るため、民主主義を守るために必要であり、故に正義である。

現金の分配が必要な理由

人頭税は、古来、最悪の税制とされている。これは、弱者は死ねという税制であり、徴税が、収奪を目的としたときでも、効率の悪い税制であった。逆に、一人当たり一定額を分与することを、税の一種と見ると、これは「マイナス人頭税」であり、最良の税制には、これが必要である。

民主国家では、税は、平等に国民のために使われる。警察、消防、学校、道路下水の整備等々。これらの行政サービスは、マイナス人頭税の性格を持ち、分配金の現物支給と見なすことができる。
しかしながら、お年玉は現金がいちばん良いことは子供でも知っている。好きなものが買えるからである。

行政サービスには、競争原理が働かず、効率が悪い。また、 行政サービスは、金持ちほど、大きな恩恵を受けるものになり易い。行政サービスは、国民が平等に利益を受けられるか、叉は、料金をとるのが難しいものに限定し、その他の公共サービスには、受益者負担の原則を貫くべきである。

例えば、水道を無料にするサービスなどは、最悪である。貴重な水が、浪費される結果になる。ある共産国では、水道料金が安いため、プールに浄化装置を設置することが不可能といわれる。金持ちは、安い水を湯水のように使い、貧乏人は、安い料金でも倹約して、基本料金以内ですませる。

水道料金は、経済原則に従い、料金収入が最大になる値に設定する。異常渇水時には、弾力的に充分値上げする、こうすれば、水は最も有効に使用され、断水などは起こり得ない。この増収分は、そのまま分配金の増額に向ければ、低所得者も潤うことになる。戦争中の疎開先で、2キロ先の溜池から、泥水をかついで来て、浄化して使った経験を持つ私にとっては、一立方米、百円が、千円になっても安いと思う。バケツ一杯のきれいな水が、たったの十円である。

水道料金を高くすると、必ず、庶民から強い不満の声が上がる。日本の大衆は、日本が民主国になったことを、頭では、わかっていても、心では、税金や公共料金は、お上からしぼり取られるものであると感じているからである。実際に現金を分配し、水道料金値上げの分は、これこれですと説明すれば、根強い不信感も、無くなってくるであろう。

高速道路の料金も、収入最大の原則にもとずいて定め、混む時と、空く時間帯で、できるだけ弾力的に変更するべきである。これによって、高速道路は、有効に活用される。もし、首都高を無料にすれば、万年完全渋滞となり、排気ガスは充満し、高速道路としての機能は失われ、無用の長物と化す、これは、みんなの損であり、誰も得する人はいない。

収入最大の原則で定めた料金が高すぎて、庶民が利用できないとしたら、罪は交通網の整備を怠っている行政にあって、高料金のせいではない。一般道路が空いていれば、経済原則に沿った料金は低くなる。現状では、庶民が利用できる料金では、必ず渋滞が起こり、それでは、庶民が利用できても、それはすでに高速道路ではないのである。

三千倍の競争率になるように、公団マンションの価格を定めた役人は、バカか恥知らずである。これでは、住宅に困っている人も、困っていない人も、申し込む。

もし当たれば、マルもうけだからである。そして、当たるのは、困っていない人である。貧乏人は、割安でも、マンションは買えない。国民から集めた税金を何と心得ているのだろうか。コスト割れではないと言うだろうが、正当な価格で売れば、その分、税金を安くできるのだから、同じことである。

その他、食管の赤字、安い家庭用電力等々、マイナス人頭税的性格を持つ制度が、かず限りなくある。これらは、無駄、浪費、非効率を生み、利権の巣となっているが、それでもなお、弱者保護の効果の方が、はるかに勝り、もし、収奪のための支配者が、これを行っているのなら大いなる善政である。そして日本国民も、お上のお恵みとして、けっこう喜んでいる。

しかし、これらをいっさい廃止し、かわりに現金で分配する方が、はるかに合理的、効率的なことを分かってほしい。

生活保護でなく、なぜ分配金が良いのか

生活保護等の社会保障は現金給付で行われ、この点で、分配金と似ている。しかし本質的に違ったものである。分配金は困窮者だけでなく、みんなに平等に配るものであり、貰うことに負い目を感じることはない。生活保護を受けている人は、お上のお恵みで生きている動物と見なされ、人間扱いされていない。人はパンだけで生きるものではない。人間らしく生きるには自由が必要である。テレビはだめ、高校へ行ってはいけないなどと言われ、なによりも、働く自由を奪われている。働いて金を得れば、給付から差し引くとは、ひどい意地悪である。

もっとも、これは必要悪であって、生活保護を受けている人の陰には、その何倍もの、すれすれの困窮者がいるのだから、バランス上やむを得ない。分配金は経済競争ゲームの敗者に点棒を補給してゲームを続けさせるものであるのに対して、生活保護は、ゲームから除外するものである。

老齢者・障害者保護、所得制限つき児童手当等、お恵みとしての給付には、常に、「線引き」の問題がつきまとう。不合理、不公平、煩わしい手続きなどが、ここから派生してくる。お上は、貧乏人の手間は無料だと思っている。施しをうけるのだから、めんどうは当たり前だと思っている。3万円の給付を受けるのに、手数料にすれば十万円かかるほどの手間を平気でかけさせる。不正受給を防ぐためにはしかたがない、と言うが実際には何の役にもたっていない。不正受給を防ぐことは、そもそも不可能なのである。

所得税の配偶者控除は、女性蔑視の現れである。幼い子を残して妻に死なれた夫が、どれだけ惨めなものか。お手伝いさんを頼めば、自分の給料がふっとんでしまう。それなのに、妻が死んだら配偶者控除は、なくなる。その他、数多い社会保障給付や減免制度は、みな同じような矛盾を持ち、吐き気を催す汚濁に満ちている。それでもなお、プラスの方がはるかに大きく、日本経済の繁栄を下から支えているのではあるが。これらをすべて廃止し、分配金に一本化すれば、すっきりする。

分配金は、国民すべてに平等に給付され、何の制限も受けず、線引きの問題もない。簡素で合理的な社会保障である。大蔵省の役人は、この分配金制度に反対するだろう。苦労して取った税金を、ただでばらまくなど、とんでもない。お上のお恵みとして、小出しにすべきだ。たしかに、税金を取るためのコストが大きすぎると、税金を取ったりやったりすることはできない。税コストの低減は、分配金制度を実施するための必要条件であり、後に詳しく述べる。

優秀なエリートが揃っている人達が、分配金制度が必要であるという明白な事実を理解できないのは、潜在意識に持っている「収奪」の思想で、明晰な頭脳が、曇らされているのであろう。

金持ちにも分配金をやり、貧乏人からも税金を取る。何故、それで良いのか

一人当たりの平均所得を年四百万円と仮定する。各人が、所得の半分を税金として納め、それを平等に分配するとすれば、年収十億円の人も、二百万円受取り、年収百万円の人も、税金を五十万円を払うことになる。それで良いのだ。

何故なら、それはただ、計算の過程だけのことであり、実際には、年収十億円の人は四億九千八百万円の税金を納め、年収二百万円の人は、百五十万円の分配金を受け取るからである。これは、線引きの段差をなくし、所得を、なめらかに再分配する計算法なのである。

これから提案する税制は、もう少し複雑であるが、原理は同じである。永年しぼり取られて来た庶民の、出すものは舌でも嫌だという気持ちは分かる、しかし今は、民主政治の時代である。消費税等、庶民も負担した方が都合が良い場合は他にもあり、出すものは出す、受け取るものは受け取る、トータルが問題なのだと、合理的に判断して欲しい。

分配金制度は、働けば働ける怠け者にも、分配することになる。それは怪しからんと言う人もいるだろう。しかし、働けるのに働かない人は、一種の病気である。医学的には病気でなくても、社会が保護する必要のある異常者である。いや、病気どころか、優れた芸術家、哲学者等は、こういう人達の中から生まれる。清貧に甘んじながら、お金にならないことに情熱を燃やす人達を受け入れ援助する、こういう社会こそ、真に豊かな社会といえる。

所得の再分配はどの程度が良いか

所得を全部供出し、平等に分配するのは共産主義である。競争原理は働かず、ゲームは成立しない。全く再分配のない資本主義では、経済は行きずまり、ゲームは終わる。各人が所得の五十パーセントを提供し、これを平等に分配する制度は、民主的資本主義であり、競争原理をとり入れた、自由的社会主義とも言える。所得の何パーセントを出すかという比率を、再分配率と呼ぶ。

最適な再分配率は、固定したものでない。平均所得者でも、生きるのがやっとと言う最貧国では、皆が助け合って生きて行くためには、再分配率は高くしなければならないが、余裕ができれば、再分配率を下げることによって競争原理を働かせ、経済を合理化、活性化するのが良い。再分配率は、ゲームが面白い程度に低く、ゲームが終らない程度に高いことが必要である。

日本の国民負担率は、現在約四十パーセントといわれる。もし、所得と資産に比例して納税され、平等に還元されているとすれば、再分配率は四十パーセントである。ところが、この中には、再分配とは無関係なものが、多く含まれ、再分配に逆行するものさえある。

住民税の均等割部分、保険の掛け金と称してはいるが、国民年金保険、健康保険、の定額部分などは実は正真正銘の人頭税に他ならず、再分配に逆行するものである。ガソリン税、自動車関係税は、道路建設に使われるから、受益者負担であり、再分配とは関係がない。

支出の面では、例えば公共投資は、億万長者である土地所有者の資産を、更に倍加させることが多い。 不合理、非効率な税制に伴う、莫大な徴税コスト、過剰な行政サービスによる金持ち優遇、競争原理が働かない行政の無駄と浪費、果ては、兵隊ごっこの費用まで四十パーセントの中に含まれている。

これらをすべて差し引けば、再分配率はせいぜい五パーセントであろう。この貴重な五パーセントが、日本に、トップレベルの平和な社会をもたらしているのであるが、この五パーセントでは、ゲームを永続させるのに充分とはいえない。

議員の世襲化に象徴される、階級の固定化、労働による所得では、一人当たり国土面積の十分の一も取得する事が不可能な地価、談合と闇カルテルの横行等、不吉な徴候は、すでに随所に現れている。

莫大な海外投資が、破局を先に延ばしているに過ぎない。これも、まもなくだめになる。今借金しなければならない国が、将来返せるようになる見込みはまずない。その上、経済侵略として非難される。

これらの矛盾は、適切な再分配を行う税制によってのみ、解決できるのである。

健康で文化的な生活と分配金

ここで、人間らしい生活を保障する金額について考えて見よう。筆者は、終戦の翌年、台湾から引き揚げて来た。両親と、七人の兄弟が、六畳一間に住んだ。援助物資の古着を着た。中学校へは行かず、近くの工場で働いたが月給は三十五円で、闇米一キロしか買えなかった。労務加配米が目当てだったが、労働で腹が減る分、かえってマイナスになった。

わずかな米を、これも援助物資の、とうもろこしの3倍量と交換して、飢えをしのいだ。夜学から帰って食べた、とうもろこしの粉で作ったすいとんの、おいしかったこと!このとうもろこしは、牛の飼料で、今では、まずくて食べられたものではないが、あの頃は、まずい物でも、食べたいだけ食べられる時代が来るとは、想像できなかった。

その、後遺症で、昭和一ケタ生まれは長生きできないといわれるが、六十才の今まで、大きな病気もせず、生き延びて来た。アメリカの援助や、引き揚げ者を暖かく迎えてくれた人達、恩返しをしないうちに亡くなってしまった、内地にいたというだけで、少しはましであったが、同じような暮らしの中から援助してくれた親類の人達のおかげでもあるが。

デッキにぶら下がり、トンネルで、顔をまっくろにした母から、いなかの親類からもらって来たお米を没収した、血色のいいお巡りさんなど、不合理、不公平ではあったが、ないより、はるかにましだった配給制度のおかげでもある。

そのどん底生活の中でも、古本屋で教科書を買って勉強したし、公園で物乞いしている幼い孤児を見て、一円をやるくらいのことしかできない、十四才のわが身の無力さに涙する、心のゆとりもあった。
今の生活、車に乗ってばかりいるための運動不足と、栄養の取り過ぎによる病院通い、二日酔いで、もうろうとし、スポーツ新聞と低俗週刊誌しか読まず、テレビは娯楽番組だけという生活と、あの頃の生活と、どちらが健康で文化的な生活といえるだろうか。あの頃は、どの病院もがらがらだった。今、あの頃と同じ生活をするのにどれだけかかるか。

飼料用のとうもろこしは一キロ二十円、一カ月の主食費は三百円である。魚屋では、猫ちゃんにあげるからと言えば、あの頃なら随喜の涙を流して食べた、あらを、ただでくれるし、まだ立派に使える衣類、家具、テレビ等、みな喜んで、ただでくれる。過疎地に行けば、安い空き家は、いくらでもある。平均所得の五パーセントの分配金だけでも、あの頃から見れば天国のような生活ができるのである。

ここで言いたいことは、健康で文化的な生活のコストは、今では非常に弾力的なもので、分配金の適正な金額を決める尺度にはならない、と言うことである。

現金給付の分配金は、ほどほどで良い。先に、分配は現金が良いと述べたのは現金を配る方が、はるかに効率が良いような、無駄の多い行政サービスは、止めるべきであることを言ったのである。分配金は、一応、GNPの五パーセント、年二十万円程度として置く。

しかしながら、それよりも、政府でなければやれない、やればできる、しかしやっていない、重要な行政サービスに、より多くを向けるべきである。

焼酎がスコッチに変わり、大衆車を高級車に乗り換えたところで、どれほど幸福が増すだろうか、個人で出来ることは、その程度である。

三十分で通勤できるところに、花と緑に囲まれた、広々とした家を持つ。きれいな水と空気。海や河では、魚がいっぱい釣れる。そんな夢のようなことが、実は夢ではないのである。ほんとうに民主的な政府と、まともな税制があれば。

そのほか、大地震に対する備え、食量の安全保障等、必要な行政サービスについて後に述べる。

強制保険と医療保障

税とは、人民から強制的に徴収するものである、と定義すれば強制保険の掛け金は、保険料という名の税に、ほかならない。保険は本来、任意加入のものだからである。

民主国の税とは、所得再分配の手段である、とすれば保険に名を借りた税は収奪のための税であり、その証拠に、人頭税的性格を持っている。はじめは安かった国民年金の保険料がいつのまにか高額となり、今では、学生からも取るという。組合保険で四十年間保険料を払い続け、その間は殆ど医者にかからず、退職して国民保険になった途端、病気になって、半額負担に泣くケースも多い。

大蔵省の役人には「収奪」の思想が根強く残っている。即ち、取れるところから、取れるだけ取る、騙してでも取る、老後の生活保障のためだ、と言えば、何とか納得させられるだろう、という訳である。

国民の方もうすうす感づいていて、何だかおかしいと思っているところへ、その上まだ、消費税だ、などと言われたので、カッとしたのである。

事業主負担は、全くのインチキである。政府が事業主に、その分を強制的に賃上げさせ、次にそれを労働者から徴収するのと同じことである。自由経済の下では賃金は需要と供給で定まるから、強制賃上げなど無意味であり、目先は、だまされても、結局は、事業主負担は労働者の負担である。

国民は、税とは、絞り取られるものだと感じているので、出すべきものも出そうとしない。政府の方は、仕方がないから、騙して出させようとする。悪循環である。これを断ち切るには、分配金制度しかないことは、前にも述べた。そもそも、強制保険からの給付は保険金としてではなく、本来、政府が無条件で出すべき性質のものなのである。例えば、行き倒れの浮浪者を、政府は見殺しにできるのか、保険料が未納だからと言って。

健康保険制度は、戦後の日本で、それなりの役割りを果たして来た。平均寿命が世界一になった要因のひとつでもある。しかしながら、二十一世紀の医療保障としては、お粗末と言わざるを得ない。
医療費はすべて無料とし、個人負担はゼロとする、それが理想である。

ところが、それでは競争原理が働かず、莫大な浪費が発生する。乱診、乱療、薬づけなどである。高い保険料を払っていても、歯医者などは、どこも、かなり先の予約制で、東京に住んでいても、離れ小島にいるようなものである。限られた予算で、質の高い医療を受けることが出来るようにするには、競争原理の導入による効率化以外にない。その方法を提案しよう。

政府が給付する国民一人の持ち分を、例えば、一千万円とし、これを使い切るまでは、医療費は全額それでまかなう。その後は自己負担になる。こうすれば、それぞれが自分の持ち分を大切にするから、病院に「遊びに行く」こともなくなる。そして安くて質の良い病院を選択しようとする動機が強く働くから、診療料金を自由化してもそれほど高くならない。こうして、最大のガンである、公定料金制度をやめ、競争原理を導入することができる。

自己負担に耐えられない人のためには、貸付金制度を設ける。例えば、年齢かける百万円を限度として、政府が医療費を貸与する。ただし本人に資産がないこと、一定期間、本人からの贈与が無かったことを条件とする。こうすれば、すべてを使い果たした後でも、年百万円相当の医療は、死ぬまで受けることができる。出産、育児費用、寝たきり老人の介護料等も医療費に含める。貸付金は本人が死亡すれば政府が負担する。

医療費は、下方には硬直的であるが、上方には弾力的である。早く言えば、際限がない。人間の生に対する執着は極めて強いからである。しかし、冷たいようであるが、現実は厳しい。国民に、極端な負担を強いない限度内でしか、不幸な病人は、医療保障を受けることはできないのである。その金額をどうするかは、国民的合意によって定めるほかはなく、まともな税制による経済の効率化によってのみ、その水準を上げることが出来るのである。

分配金の補完

年二十万円の分配金では、老後の生活ができないと言うかもしれない。そんなことはない、それだけあれば、健康で文化的な生活ができる、というつもりはない。年二十万円は、あくまでも、最悪の場合の最後の保障なのである。そこで、老齢年金保険が必要となる。強制加入の年金は止めるべきであるが、任意加入の年金に加入すれば良い。もちろん厚生年金や国民保険でもよい。任意加入であれば。強制保険は人頭税であるが、任意保険は本質的にそれとは異なる。競争原理が働くからである。

政府の保険が信用できなければ、或いは民間の保険の方が条件が良ければ、政府の保険に入らず、民間の保険に入ることになる。政府も、真剣に努力しなければ競争に負ける。勿論、やらずぶったくりのインチキなど、できなくなる。幼児の養護費は老人の介護費と同じく医療保障の対象になるから、幼児を抱えて働きに出られない母子家庭では、これを利用すればよい。

一般の家庭では、子供の医療保障の持ち分を減らしてまで養護費を請求する親は殆どいないであろう。母子家庭に育って、医療保障の持ち分を使い、成人してからも、病気がちで、貸付を受けられる分も使い果たした人がどうなるか。ここまで来ると、社会の義務としての医療保障の範囲を超え、慈善事業の出番となる。

分配金と出生率

分配金は、子供にも大人と同額の分配を行うから、子供の多い家庭は非常に楽になる。これでは、やり過ぎではないかと言う人がいるかもしれないが、我々の感覚からすれば、これで良い、いや、こうあるべきだと思う。幼児には手がかかるし、中学生は、六十才の男の三倍は食べる。靴の減り方は、十倍である。こんなに優遇したら出生率が高くなりすぎると心配するのは、子供を育てたことがない人である。
これくらいの分配金では、少なくとも経済的には、子育ては引き合わない。

生きて行くのがやっとと言う貧困時代は、子育ては引き合うものであった。子供は五才になると、赤ん坊の子守とか、結構、役に立った。原始時代、四十才では、もうマンモス狩りをする体力はなく、十六才の息子が頼りであった。男の子三人持てば、左うちわであった。親は、知識と経験を生かし、子供の労働力を搾取した。今はどうか、大学を出すまでのコストは大変である。大学を出て就職しても、まだ、すねをかじる。

七十才の親が、四十才の息子を搾取できるか?親孝行という名のお情けにすがるしかない。今では、子育ては全く引き合わない。こうして育てた子供が、近い将来の高齢化時代、子育てをしなかった人を含む老齢者を支えるのである。分配金、年二十万、これくらいの事をしないのは、公平の原則に反する。

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