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第十七章 税金の有効な使い方

税金の使い方は、税金の取り方と密接な関係があるので、今までも、触れてきたが残された重要な問題について述べる。

業績評価

人間が人間を評価することは、不可能である。 自分よりレベルの高い人を、正しく評価することができる筈がない。

現代に、もしキリストが復活したとしても、誰にも、分からないだろう。 しかし、業績を評価することは、できる。特に、公平な土俵でフェヤな競争に勝ち抜いた実績は、信頼できる。 そして、その業績によって、その人間を評価するのが、もっとも正確に近い評価となる。

独占事業への競争原理導入

近頃、国営事業の民営化が進められている。喜ばしいことである。しかしながら、ただ形の上で民営化されても、独占が維持されていたのでは、無意味である。独占のままでは、むしろ国営の方が良い。民間企業に独占利得を許すことになるからである。

分割できるものは、できるだけ分割するべきである。しかし、分割しても、共通の土俵での競争を作り出せないものがあり、叉、分割すれば、大きな非効率を生む事業もある。経済的競争がなくても、正しい業績評価があれば、競争原理を導入することができる。

そこで、次の提案をする。

  • 総理大臣が指名して、国営事業及び、独占事業の業績評価委員会をつくる。
  • 委員は、七十才以下で民間企業で実績を残した人から選ぶ。

早い目に後進に席を譲った、比較的若い人が理想的である。この仕事は、かなり大変なので、まだ現役でやっている人には無理である。実績を残して引退した人々の中には、世のため人のために、もう一度御奉公をしようという人が、多数いることが期待される。

官僚、公営事業、独占的大企業等の出身者は避ける。この中には、もちろん立派な人が多数いるが、フェヤな競争で出世したとは言えない人も居るからである。できるだけ、庶民的な人々を、多く選ぶ。ぎゅう詰めの電車に、乗っている人でなければ、J、R、の業績は評価できないし、兎小屋に住んでいなければ、住宅公団を評価することは出来ないからである。

この委員会は、政府の外郭団体、公団等、及び独占事業の業績を、毎年一回、評価して公表する。又、委員会は株主である政府を代表して、これらの団体の長を選ぶ権限を持つ。これらの長は、官僚出身者、民間人、或いはその団体の職員等、だれから選んでも良い。その団体の経営の改善案を、広く募集し、その提案と、提案者を委員会で審査して、長として採用する。任期は二年とし、その間の業績が認められれば再任を妨げない。長は、その団体の役員の選任について全権を任される。

公共事業の入札

指命競争入札の弊害として、発注者とのなれ合いや、談合の横行は、目に余るものがある。 これは、税金を横領するのに等しい。ここにも、前記の委員会に登場していただく。

委員会が必要と認めたときは、委員会が指命した二企業を、入札に参加させる。できれば一企業は外国の企業とする。

大店法と住民パワー

大店法は、大企業の小売り産業独占を防ぎ、競争を維持する為のものである。ところが実状は後発企業の進出を妨げることにより、既存大店舗の独占を許し、競争制限の逆効果を生じている。日本の流通産業、特に小売り段階にはこのような競争制限が多く、生産性上昇をいちじるしく遅らせている。

自由主義経済の競争原理は、冷酷なものであり、滅びるべきものは滅びなければ、進歩は停止し、結局は小売業者自身を含む国民全体の不利益になる。これをもし、ノーと言うなら、社会主義の計画経済にならざるを得ず、そうなれば、どうなるかは、皆が分かっていることである。要するに、総論賛成、各論反対という奴で、自分だけ得したいと言う、我利々亡者の言い分である。

政治の貧困と、住民の同意書を持ってくれば、出店を許可しますと言う、無責任な役人の、責任逃れのために、町内のボス達に寄生虫所得を許し、また、大きな無駄を発生させている。住民パワーは、行政当局の怠慢を許さない、貴重なものであるが、これが行き過ぎて、個人叉は小数者の基本的人権まで否定するに至ると、これは既に民主主義ではなく、全体主義に堕落してしまう。

国民は誰でも、自分の土地に建物を建て、自由に営業する権利を持っている。合理的理由のある法律の制限内で。自分の損になるという理由で、他人の権利を奪うことは許されない。わかりきったことである。住民の同意書を持ってきなさいという行政指導によって、厄介なことには巻き込まれたくないという、敵前逃亡に等しい責任逃れをし、多数の暴力を許し、民主主義を否定し、ナチズムを推奨するとは、言語道断である。

無駄な抵抗を、いくらやっても、時代の流れには、逆らえず、いずれ大店舗どうしの激烈な競争が行われ、小売業の合理化が進行するだろう。交通手段の発達した今では、大店舗の進出を局地的に防いでも、買い物客は、大店舗が集中している所へ流れる。その周辺にある小さな店も、かえって大きく潤う。大店舗群を持たない町は、火が消えたようになるだろう。そうなってはじめて後悔することになる。

個人営業の小さな店は、大店舗では出来ない、きめ細かいサービスを行うことによって、生き残る事ができるのである。近頃の客は差別化志向が強い。パートのおばさんや、新人類の店員がやっている大店舗に、年季のはいったあなたが負ける筈がない。政府は、適当な補助を行って、これらの小企業の競争条件を有利にし、小売業が大企業の独占化するのを防がねばならない。

政治資金

政治家のレベルは国民のレベル以上にはならないと言われる。それにしても、現状はひど過ぎる。政治活動には金がかかる。議員の歳費では、賄えない。国民大衆は、政治家は金持ちであり、政治家から金をむしり取るのは当然だと思っている。「井戸塀」とか言って、政治は先祖代々の資産を使い尽くしてやるものと思っている。

大金持ちで、聖人君子で、しかも政治に情熱をもやすという三拍子そろった人は、多くはいない。結局、政治資金は、寄付でまかなうことになる。ところが、この寄付がくせ者である。見返りを期待せずに大金を寄付する人が、そんなに居るだろうか。

自分の金でなく、会社の金なら、まだ出し易いが。しかし、見返りなく、会社の金を出せば、それは明らかに背任行為である。本来なら、両手が後に廻る犯罪である。株主や従業員は、自民党支持者ばかりではあるまい。各党に、議員数に応じて平等に寄付するのなら、まだしもであるが。

労働組合や、宗教団体からの寄付も同じである。組合員や、信者達は、すべてが、同じ政党の支持者なのだろうか。これらの矛盾は、必要悪として、頬かむりされ、各党、なあなあの慣れあいで、やって来ているのである。これで、政治が良くなる筈がない。国民のための政治のコストは、国民が負担しなければならない。逆に言えば、国民がコストを負担しない政治は、国民のための政治ではあり得ないのである。

そこで次の提案をする。

  • 法定得票数に達した候補者には、得票一票について三百円、政治資金として支給する。
  • 個人所得税、財産税の0.3%を納税者が指名した人に、叉は党に、政治資金として支給する。
  • 誰が誰を指名したかは、秘密にする。各地区で集計後は、指名票を焼却する。
  • 指名を受けた人が立候補しないときは、その人が更に次の人を指名する。

政治資金を受け取った候補者は、それを、他の任意の候補者に分与して良い。 政党名のものは、公認候補者に平等に分配する。 個人以外の政治献金は禁止する。

教育改革

教育の良否は、国の将来を百パーセント決定する。教育にも競争原理を導入して、改革しなければならない。それには教育の業績評価が、まず必要であるが、それは至難の技である。学力テスト、有名校への進学率などで判定するのは、一面ではかなり有効であるが、片寄りがある上に、弊害が大き過ぎる。

もっと真実に近ずく評価法がある。先生の業績を正しく評価できるのは、生徒だけであるが、生徒はまだ子供である。そこで、その生徒が成人してから、振り返って、かっての先生を評価する、これが最も正確な評価である。

私の小学校時代の恩師のもとには、四十数年後の今でも、クラスのほとんど全員が、全国から集まる。できの悪かった子ほど、先生を慕っている。先生は心の触れ合う教育をされたが、中学校への合格率も、記録的な成績であった。当時は太平洋戦争末期であり、軍国主義思想を吹き込むようなこともされたが、それ以上に、真理に目を開かせる教育をされた。民主主義を教えても、まる暗記教育では、すぐに化粧が剥がれるのに対し、軍国主義など、真理の前には、すぐに正体を見破られてしまう。

そこで次の提案をする。

  • 教育委員は立候補なしの選挙制とする。
  • 候補者は五十才以上の教員、叉はその退職者に限る。
  • 辞退された人を除き得票順に就任していただく。
  • 得票数、順位等は公表しない。

こうして選ばれた教育委員会は、かなり信頼できる。良い先生には、かっての教え子が、こぞって投票するからである。この教育委員会は、教員の採用及び各学校の校長の任命権を持つが、校長候補者の、かっての教え子に、アンケート調査し、校長任命の参考にする。

全国各地にモデル校を建設する。その経営は、教員の採用を含め、全面的に民間の有志に任せる。建設費、及び経常費は、通常の公立の新設校と全く同額を、国叉は、自治体が負担する。教育委員会は、経営者を審査し、採用する外、モデル校の業績評価を行う。

保護者からの寄付は、いっさい禁止するが、他からの寄付及び経営者の私財を使って、教員の待遇を、公務員より良くするのは、妨げない。このようにすれば、モデル校は、日本の教育をリードし、教育のレベルを高めるのに貢献するだろう。(入学者の選抜は、小、中学校は、近くの人を優先し、抽選で行う。高校以上は通常の入試による。)

教員の質を高めるのに、待遇さえ良くすれば良いと言うものじゃないかもしれない。しかし、他の条件が同じなら、待遇により質が変わるのは当然である。田中元総理の数々の業績は、万人の認めるところであろうが「でもしか先生」をエリートに変えた、教員給与の大幅改善を、彼が主導したとすれば、その功績の前には他のことは、霞んでしまうほど、大きなことである。

その効果は、二十一世紀の前半にかけて、ボディブローのように効いてくるであろう。その彼を、大悪人の如くおとしめる、マスコミや評論家に対して、憤りを感じるのは、筆者だけではあるまい。神ならぬ人間が、十の善をなそうとすれば、必ず三の悪を伴う。

何でもわかっているが、何もできない人を、インテリと定義し、世のため、人のために何かをやる人を仕事師と定義する。インテリは必要悪を冒せないため、何もできない。仕事師とは、副作用としての悪を恐れず、何事かをやり遂げることができる人であり、彼は偉大な仕事師であった。

狂乱物価は、彼のせいではない。アメリカをはじめとする先進諸国の、資源の浪費から起こった、石油ショックが原因である。その前にも、土地などは、すでに上がって居たと言うかもしれない。豆腐が高くなった、床屋も上がったと言う。しかし、豆腐屋さん、床屋さんを楽にするには、それしか無いのである。おためごかしの美辞麗句をつらねても、中小企業に何の足しにもならない。

我々も助かった。物価も上がったが給料も上がって長年、負担に苦しんでいた住宅ローンが、楽に返せるようになったからである。収入がふえて貧乏人でも土地が買えるようになったからこそ、住宅地が値上がりしたのである。我利我利亡者は、他を非難するのに急で、自身の受けた恩恵には気がつかない。

彼が、ローキード社から、お金を貰らったのが事実であったとしても、法に触れるとは限らない。立法の精神からすれば、収賄とは、私腹を肥やすために、国民に損害を与えることである。そのどちらでもないことは、皆が認めている。道徳的にも責めるわけに行かない。それは、税制や、選挙制度の不備からくる、必要悪であった。

自民党支持者もいる組合員からの金を、社会党に寄付する行為と、どちらがより悪いだろうか。多数の暴力で小数者を踏みつけにするのに慣れた連中には、わからないだろうが。彼は悪人ではない。お人好しの善人である。本当の悪人なら、用心深く、きれいにクリーニング済みの金しか受け取らないだろう。

彼ほどの能力を持っていて、その気になれば、ひそかに検察を支配下に置き、国民の人気取りに専心して、独裁者になり得たかもしれない。彼はそんな人間ではなかった。天下国家のために夢中になっていたからこそ、足を掬われたのである。

入試改善

近年、入試改革と称して、猫の目のように制度を変え、ますます受験生を痛めつけている。 そもそも、このような騒ぎは、できの悪いわが子を、何とかして一流校に入れようとする、親馬鹿の焦りから発している。 そんなことは、不可能なのに。

できの悪い子が入れるようになれば、もはや、そこは一流校ではないからである。偏差値が悪いとか、輪切りがけしからんとか難くせをつけ、内申書重視へ、誘導しようとする。そうなれば、あとは、親の力で何とかなると思っている。

馬鹿な評論家は、教員が、神様でなく、人間であることを忘れて、内申書重視に賛成する。内申書による選抜にくらべれば、どんなに馬鹿げたテストでも良い。少なくとも、公平な土俵で、フェヤなゲームに勝ち抜く根性だけは、ペーパーテストで確認することができる。

日本経済の繁栄の多くの部分が、この悪評高い入試制度のおかげである。 欧米の多くの国では、国民の階層が定まっていて、下層階級の人は、はじめから、大学に行こうとは考えない。 日本では、誰でも、頑張りさえすれば、一流大学にはいることができ、社会に出ると、エリートになれる。 これは、民主主義社会の理想に近い。

しかしながら、そうは言っても、貴重な青春を、つまらないことを頭に詰め込むことに浪費させるのは残酷である。 又、高校はおろか、小学校の教育まで、スポイルされている。

では、その改善策は?極めて簡単である。入試制度の良否は、ただ、出題の良否という一点にかかっている。良い問題を出せば良いのである。憲法の精神がわかっていない裁判官や、社会に出ては、ほんとうに役立つことは何も出来ない優等生、大学を出ても、中学の理科ができない新聞記者、などは重箱の隅を突っつく愚劣なテストが作り出したものである。

入試問題の質は、学校の授業の質を定める。良い問題をつくるためには、何百億円かけても惜しくはない。現状は、教授などの片手間でつくられている。ある作家の作品から出題された国語の問題を見て、その作家は、私にも、どれが正答か、判らないと言った。

予備校では、出題傾向の研究が進んでいる。予備校で行う模擬試験の予想問題は実際の出題にしばしば的中する。的中まで行かなくても、模擬試験の問題を参考にしてつくったと疑われるような出題は、多い。今では、予備校の模試で修練を積まなければ、一流校への合格は、まず不可能になっている。

予備校が出題研究に使っているものの、数十倍のお金と、人材を、国公立校の入試問題作成に投入するべきである。テスト学という学問の分野があっても良い。ペーパーテストで人間を評価するのは、それくらい難しい。悪問、愚問の存在を放置して、ペーパーテストの弊害を言い立てても始まらない。

ここで次の提案をする。国公立校の入試問題について、全国の教育委員の投票により、ベストテンとワーストテンを公表する。これで競争原理が働き、大きな改善が見られるであろう。共通一次試験は、平均点が百点満点の九十点以上になるように出題する。これは全科目テストする。九十点以上は差別しない。こうすれば、重箱の隅的な問題は無くなり、今までのテストで一流校に合格する子なら、学校の授業だけで、軽く九十点はとれる筈である。

二次試験は一科目とし、一題でも完全に解ければ合格になるような高度の問題を課す。二科目にするときは、少しレベルを落とす。時間は充分に与え、丸暗記や受験技術は通用せず、基礎がしっかりわかっている上に、創造力と、問題を解決する執念が要求される問題を課す。

ある精神薄弱者は、電話帳を一冊完全に暗記していた。囲碁の定石は十数万あると言われるが、これを全部暗記しているだけでは、初心者に負けるだろう。記憶力と創造力は、次元が異なるのである。1+1の札を見せれば、2の札を指すように、動物を仕込むことはできるだろう。人間の子供にも、小脳による条件反射で、答を出すように教育することもできる。しかし、これは、大脳で、言い換えれば、心で、1+1は2を理解するのと本質的に違うのである。心で、それを理解すれば、最先端の数学がわかるまでの道は近い。

1+1の計算ができるコンピューターが作られるまでに、数十万年の人類の歴史が必要であったのに対して、何年もかかる計算を瞬時にやってしまうようになるまでに、それから数年しか、かからなかったのと同じである。(しかし、コンピューターは、どこまで行っても、精薄者の域にとどまり、人間の大脳の働きをする、即ち、心を持つようにはならないであろう。そんなコンピューターをつくれる人は神に近い)

今の教育は、心で分からせず、暗記を強要し、一億総白痴化を目指しているように見える。大学入試で、記憶していることを求める事項を、各課目、千以下に限定し、そのリストを公表する。その表にないことを、知らなければできない問題は、没とする。

英語の発音関係の出題は、やめる。アメリカの幼稚園児は、日本人の英語教師より正確に発音するし、日本語の発音が怪しい、日本の総理大臣もいる。発音など人間の値打ちとは関係がない。外国語の学習は、視野を広くし、日本語をも、より深く理解できるようになる。

これは、大脳の外国語学習である。世界中の人と心の交流ができるようになるのは、素晴らしいことである。会話ができなくても読んでわかれば良い。会話が出来る人でも、心が分かる人は少ない。日本人同志が日本語で話しても、本当に分かり合えることは、滅多に無いのだから。

会話ができるようになることは、小脳の学習である。もちろん、これも必要である。高卒者は、みな英語が話せるようにするべきだし、それは可能である。しかし、そのためには、小脳の学習が必要であり、大脳の学習と混同してはならない。まず、日本人の英語の発音は、小学生のときから、聞かせないようにする。

幸い今は、カセットテープが利用できるので、アメリカ人の英語を、繰り返し聞かせる。そして、簡単な日常会話を、体が覚えるまで、練習させる。これで充分である。丸暗記をさせる小脳の授業は、お得意の筈である。しかし、入試には必要がない、学問に必要なのは、小脳ではなく、大脳なのだから。

さて、入試がそうなると、学校の授業もそれに対応する。小学校から、一般課目は午前中だけで、午後は、芸術、スポーツなどを含む選択課目とする。算数が好きな子は、数学だけをやっても良い。中学校は学区制を緩め、選択科目で、特色のある学校を選べるようにする。落ちこぼれた子は、午後にも一般課目の補習を受ける。

わからない問題の解答を、丸暗記させてはならない。どんなにやさしい問題でも良い、その子の力でできる問題を、自力で解かせ、徐々にレベルを上げて行く。これで拾い上げられない子は、殆どいない。子供も、午後からスポーツがやれるようになるために頑張るだろう。

文化、芸術、スポーツの振興

労働時間の短縮と平行して、文化、芸術、スポーツ等が盛んになる。単なる遊びや娯楽よりも、より高いレベルの喜びが求められる。政府は、そのための予算を、もっと増やすべきである。功成り、名遂げた人に勲章をやったりするのは、屋根の上に屋根をのせるようなもので、意味がない。

新人の育成、かくれた天才の発掘に、お金を使うべきである。山の高さは、裾野の広さに比例する。トップに居る人達は、それなりの収入が得られるが、下積みの人には、政府の助力が必要である。オリンピックのアマチュアリズム、スポーツを職業とする人には参加資格を認めないと言う、それは、かって、支配階級が人民を搾取していたとき、オリンピックは支配階級の為のものであった名残りである。現代のオリンピックは、全人類の為のものであり、貧乏人も参加できなければならない。貧乏人がスポーツに専念するためには、それなりの報酬が必要である。

そこで、次の提案をする。 技芸功労年金制度を設け、文化、芸術、スポーツで大きな業績を上げた人、千人を選び、終身年金を支給する。 オリンピック入賞者などは、これに入る。金額は国民の平均年収程度で良い。これによって、オリンピック入賞者が晩年に悲惨な状態に陥いると言うようなことが、なくなれば良い。 各地で、小さなコンクール、競技会などを頻繁に開催する。入賞者には、技芸奨励年金を支給する。これは、功労年金と同額であるが、期間は五年間とする。その他、伝統芸能、工芸等で一定のレベル以上と認められた人等、あわせて年一万人、該当者を選ぶ。

碁、将棋、ゴルフ等で、スポンサーからの賞金で生活できるのは、トップクラスの三十人程にすぎず、トップクラスと殆ど差がない技量をもちながら、他に生活の資を求めなければならないプロは多い。これらの人達を政府が補助することにより裾野を広げる。

アマチュア考古学者、天文学者、発明家、かけ出しの絵書き、音楽家、スポンサーのつかないスポーツをやる人等で、レベルの高い人は、この制度の恩恵を受けられる。年金期間が終わり、再度、年金を受けられなかった人は、学校の選択課目に、教員免許がなくても、講師として優先的に採用する。

著作権、特許権保護

文芸作品、発明技術など、人間の大脳が作り出したものは、物ではないものである。これらのものの「物」に対する関係は、物質に対する精神、小脳に対する大脳、ハードに対するソフトの関係である。ソフトはハードと同じく、それをつくり出すためには、才能と努力を必要とし、ハードと同じく、或いはそれ以上に有用である。しかしながら、ソフトは、ハードのように、私有権を保護することは、それが「物」でないために本質的困難がある。

すぐれた彫刻を例にとる。複製技術の発達により、完全に同じ形のプラスチック成形品が、簡単に低コストでつくれるようになったとする。その作家の小脳の産物である本物は、それなりの高い価格で売られるだろう。ではプラスチックの模造品は、無価値だろうか?その作家が、大脳で作りだしたものは、本物も模造品も全く差がなく、作家の心と、見る人の心が感応して、深い感銘を与えるだろう。この点では、本物と同じ価値を持っている。しかし、もぐりの複製を取り締まることは難しい。

また、たとえば、芭蕉が、その天才と長年の努力によって、「古池や、蛙とび込む水の音」という名句を、ものし得たとする。そして、これを句会で発表すると、その名句は、人々の口伝えに、日本中に広まり、国民に喜びを与える。名句は、国民全体の所有に帰し、芭蕉はそれを販売することによって利益を得ることはできない。彼に正当な報酬を与えることは、政府にしかできないし、政府にならできることである。政府がソフトにお金を出すことは、すぐれたソフトが多く生み出される大きな誘因になる。

そこで次の提案をする。コンピューターのソフト、書籍の印税、映画のビデオ等、ソフト関係の使用料は、大部分、政府が負担し、利用者の負担を少なくすることによって、海賊版等の泥棒行為からは、つかまる危険に見合う利益を得られないようにする。今日、特許権から、その発明の価値に見合う利益を得ることは、非常に難しい。

どんな大発明でも、それに誘発されれば、容易に見つけられる抜け道を、完全に塞ぐため、膨大な周辺特許を固めてかからなければ、利益に結びつけることはできない。これは、個人や小企業には無理である。又、先見性のある発明ほど、実用になるまで時間がかかり、その間に特許の期限が切れてしまう。

発明に対する正当な報酬は、政府のみが与えることができる。特許技術の使用料は、当事者どうしの話し合いによらず、低い公定料率を定め、誰でも手軽に利用できるようにする。(有効期間は、長くする)これによって、せっかくのすぐれた技術が、一部でしか利用されず、抜け道を見つけるために、莫大な無駄なコストが費やされている現状を改善する。

また、発明者は、周辺特許に煩わされないようになる。政府は、発明者に正当な報酬を支払う。その発明によって社会が得られる利益の四分の一をその目安とする。しかし、誰がその評価をするのか。これは非常にむずかしい問題で、莫大なコストをかけても、正確な評価はできないだろう。実際に支払われた特許使用料に機械的に比例させるのは、サクラ等の不正が誘発される。

発明の評価は本人からの申請による他はない。特許庁は、これを受け、目に余る過大申請には更正決定をする。話し合いがつかないときは、先に述べた税務審判所で裁判を行う。裁判では、識者の意見、及び、実際に支払われた特許使用料などを参考にする。裁判の結果、最初の申請額が、その発明によって社会が得る利益を越えていたと判定されたときは、懲罰的な多額の罰金を課す。このようにすれば、裁判になることは殆どなく、この制度が円滑に運営されることが期待される。

政府広報と国民与論の形成

NHKの放送受信料は、人頭税であることは、前にも述べた。勝手に空間に放出した電波の料金を取ることは、公的権力以外では、できる筈がない。

「金を払ってでも見たい番組」をつくることは、私企業のやることであり「金をさしあげてでも、見ていただきたい放送」をすることが、政府の役目である筈である。

放送受信料は悪い点ばかりではなかった。国民が、一応納得して料金を払うような、視聴率の高い番組をつくることに努力せざるを得なかったからである。しかし、公共放送には、ご主人様である国民のご機嫌取りよりも、ご主人様の為になる放送を、国民も望んでいる。

NHKの費用は政府が支払うべきである。ただし、前に述べた委員会による正しい業績評価が伴わなければならない、さもないと、番組の質は、今より、かえって低下してしまう。視聴率万能では良くないが、ある程度はないと、放送する意味がない。識者も評価する、質の高さと、高視聴率を併せ持った番組が理想である。

不偏不党と言うのは、意見は何も言わないとか、何が言いたいのかわからない要領を得ない見解を述べることではない。堂々と、信じるところを明確に述べる論説委員が必要である。但し、これに対して、レベルの高い反対意見も、必ず続けて放送する。これが不偏不党ということである。どちらが正しいかは、国民の判断にまかせる。

私営企業であるところの新聞等のマスコミに、国民にとって是非必要な、国民の耳に痛い意見をのせることを期待することはできない。彼等は、生き残りをかけて、大衆のご機嫌取り競争をしているのである。政府は、料金を支払って、新聞の紙面を借り、各界の有識者の正論を掲載する。

抗議電話を避けるために匿名でも良い。党利党略、或いは保身のため、言いたいことを言えない政治家や官僚も、匿名なら、正論を述べるだろう。但し、反対意見も必ず同時に掲載する。丁々発止の、レベルの高い論争を進め、あとは国民の判断にまかせる。

このようにして、国民与論の質を高めることにより、民主政治が衆愚政治におちいるのを避けることができる。太平洋戦争中マスコミが、どのように国民に迎合して、憂国の士を非国民呼ばわりしたか、戦後の日本の繁栄の礎となった講和条約締結のとき、どんな社説を掲載したかを思い出せば、これがどんなに大切なことかわかるだろう。

交通戦争の緩和

ぎゅう詰め電車は、体力を浪費させ、交通渋滞は、時間とエネルギーの莫大な無駄を生んでいる。 これを根本的に解決するには、地方分散しかないが、さし当たって有効な方法があれば、実行するべきである。

フレックスタイムの採用、拡大をはかるため、導入した企業の通勤費の半額を政府が支給する。

官公庁関係は、できるだけフレックスタイム制とする。 東名、関越、東北、常磐、各高速道路を、都心を迂回して結ぶ片側四車線の高速道を早急に建設する。 荒川、多摩川等に、橋を多数新設する。

幹線道路の立体化を進める。 通勤客を運ぶバスに、運行距離、に比例する高額の補助金を出す。 ガソリン税、軽油税を増額する(前述)地方分散の進行に先行して、地方の道路網の整備を進める。

近距離専用白タク制度をつくり、運転経験の長い、六十才以上の退職者が、手軽に免許がとれるようにする。これには、表示灯などで、行く先を明示すれば、相乗りを認める。(相乗り料金は、運転者、乗客双方の利益になるように合理的にきめる)タクシーは、それほど効率的な交通手段とは言えないがマイカーよりは、ずっと良い。電車通勤の補完になっているからである。

時代遅れの、不必要な規制を続けて、ひどいタクシー不足をつくり出しているのは最悪である。 もはや戦後ではない。 みんなが豊かになった今、料金の安さよりも、まず、すぐ乗れることの方がはるかに必要である。

寒い夜半に一時間もタクシー待ちをしているたくさんの人達のことを思えば、こんな状態にした責任者は、昔なら切腹ものである。良心のかけらでもあれば辞表を出す筈なのに涼しい顔をしている。誰かの利権を守るためにやっているのではないかと勘ぐりたくなる。

自転車は、典型的な庶民の乗り物である。自転車で駅に行く人種は、外車を乗り廻す、暴力団、社用族、寄生虫族の対極に位置する種族であり、社会に最も貢献しているのに、報われることの少ない人達である。

兎小屋に住み、雨にも負けず、風にも負けず、冬の寒さにも耐えて、毎日自転車で通勤している、交通戦争緩和の優等生でもある。

自治体は彼等にどんなにサービスしてもサービスし過ぎることはない。何としてでも、駅のすぐ近くに場所を確保し、充分な広さの無料の自転車置き場を設置し、職員がよく管理する。それが我々の常識である。放置自転車を悪者扱いにし、撤去するだけで、それ以上のことは何もしようとしないとは、どんな神経を持っているのだろうか。 いったい税金は、何のために取っていると思っているのか。ピカピカの庁舎をつくるためだけではあるまい。

自転車置き場を、どのようにしているかだけで、自治体の正確な業積評価ができるというものである。自転車通勤者はJR、にとっても大切なお客様である。

できるだけの協力を惜しんではならない。バス会社も、バス停に自転車置き場をつくるぐらいのことは、しても良い。


交通事故対策

シートベルトは狭い日本では必要性が小さい。欧米のような高速は出せないし出すべきではない。そして乗っている人よりも、歩行者や、自転車の被害が大きい。シートベルトをすることによって、レーサー気分になり、暴走を誘うマイナスの方が大きいかもしれない。ヘルメット、シートベルトに身を固めた運転者にはねられた、歩行者の身になって見ると良い。

政府は、シートベルト強制の前後の統計を調査し、もし、逆効果なら、素直に誤りを認めるべきである。それよりもスピードを抑えることが先決である。そこで、 スピード税を新設する。エンジンに無理がかからずに出せる最高速度を標準速度と呼ぶ。標準速度に応じて課税し百二十キロ以上の車には特に高額のスピード税を課す。

エネルギーの安全保障

エネルギーは、今日の社会では、なくてはならないものであり、また、いざという場合にも、エネルギーさえあれば、食糧をつくり出すこともできる。

日本のエネルギー自給率は極めて低い。これは、非常に不安定な状態であり、海外からの供給が途絶えたときに備えて、できるだけのことは、して置かなければならない。

そこで次の提案をする。国内の油田、炭坑、天然ガス田は、政府が買い取り、生産を止め、資源を温存する。但し、保守管理をよくし、すぐに生産を再開できる状態を保つ。近海の油田探査を進め、現在はコスト的に成り立たないところでも、調査だけはしておく。

原子力発電の燃料の貯蔵量を増やす。また、再処理工場を国内に建設する。二十一世紀には、核融合発電が実用化されるであろうが、それまでは、核分裂反応は、燃料の貯蔵が容易である点で、エネルギー供給の安全保障に最適である。原子力発電のコストは、石油よりも低いと言われるが、コストは問題でない。

コストのために安全をおろそかにしてはならない。その意味では、原子力発電に対する反対運動は貴重である。放射能漏れの、単なる噂だけでも、魚介類の値段が下がるとか、周辺の地価が下がるとか、とれるものは、とれるだけとってやろうとか、さまざまな不純な動機から、我利々亡者が騒ぎ立てるのも、役にたっている。なぜなら、コストを問題せざるを得ない私企業がやっているかぎり、完全に安全とは言えないからである。

しかし、小さな放射能漏れ事故などで、大騒ぎするのは、いただけない。 わざわざラジューム温泉につかったり、危険なレントゲン検査を、それほど必要がないのに受けているのから見れば、それより、はるかに微量の放射能漏れを、問題にするのは、おかしい。 チェルノブイリ事故のような、重大事故発生の可能性が、ゼロかどうかが問題なのである。

すぐれた実績を残した信頼できる科学者を集めた安全監視委員会をつくり、徹底的調査を行うことが先決である。


民主社会の防衛

民主主義は、人民が武力でかち取り、人民の武力で守るものである。政府は、あてにできない。人民のための政府が、支配者のための政府に変わる可能性がゼロではないからである。他国のかいらいになったり、クーデターによって軍事政権ができたりすることは、しばしばある。現代ではこれが侵略の一般的な形態になっているくらいである。人民自身が武力を持たねばならない。

そこで次の提案をする。

  • 市町村単位で武器を準備する。
  • 武器は、小銃を主とし、素人でもすぐに操作できるものを選ぶ。

これらは、平生は、自治体で厳重に管理する。いざという場合には、住民の総意によって武器庫を開き、住民一人ひとりが武器をとって戦う。 これくらいの用意と覚悟がなければ、民主主義を守ることは、できないのである。アメリカ国民は、これがよくわかっているので、治安上問題があっても、武器を持つ権利を手放そうとはしない。一億二千万の日本国民に、この覚悟があれば、どんな強国も、侵略することはできない。逆に、日本国民が「長い物には巻かれろ」という信条を棄てない限り、自衛隊は、張り子の虎で、何の役にも立たないだろう。

自衛隊は、儀杖兵、軍楽隊など、かっこうだけ良くして、兵隊ごっこをやっていれば良い。その代わり、今の十分の一程度に縮小する。将校を主体とし、いざという場合には、民兵の中核となるように訓練する。国民は、自発的に民兵となるが、そのとき一緒に戦わない人を差別してはならない。これが、日本人の心情では、むずかしい。すぐに非国民呼ばわりする。しかしこれは、非常に危険である。これは徴兵制度に通じる道である。

自国の民主主義を守るためには、隣国の民主主義をも守らなければならない、と言うドミノ理論によって、多数のアメリカ青年が死んだ。もし、アメリカが、ベトナム戦争を義勇兵で戦ったとしたら、あれほど悲惨な泥沼に落ちこむことはなかったであろう。自発的に戦うことによって、はじめて、戦わねばならない必然性が証明されるのである。

徴兵制度は民主主義とは、相入れないものである。金持ちから税金はとっても、国民から、生命を徴収することはできない。そんなことをすれば、基本的人権の尊重など空念仏となる。もし政府が徴兵制度をつくろうとしたら、その政府は国民の敵であり、国民は武器を取って政府と戦わねばならない。

日本の民主主義は、アメリカによって与えられ、アメリカによって守られてきた。外敵からだけでなく、日本自身からも。日本では、最高裁が民主主義を分かっていないのだから、一般大衆が分かっていないのは当然である。アメリカが目を離せば、軍国主義に逆戻りしかねないような実状である。よく考えて、真の民主主義に目覚めて欲しい。

アメリカは、ソ連に対抗するために、日本を甘やかしてでも味方につけてきたが、最近はペレストロイカによって、風向きが変わり、日本に辛く当たるようになった。日本も、そろそろ、独り立ちしなくてはならない。ペレストロイカは、アメリカとソ連に働きかけて、国連軍を強化するチャンスである。

自衛隊の大部分を国連軍に編入する。今の防衛費は、国連軍に拠出する。アメリカとソ連が手を結んで強力な国連軍ができれば、地球上から戦争を消滅させることができる。カンボジャを始め、今も世界各地で続いている悲惨な戦争を終らせることができるのである。北方領土にこだわらず、ソ連とは早く友好関係を結ぶべきである。

日本人に根続く残っている帝国主義的思想が、四島返還の要求に現れている。世界はひとつ、地球はひとつという観点に立てば、今更、領土問題に目くじらを立てることはない。それに、残念ではあるが、もう時効にかかっている。土地は、そこを故郷とする人のものであるとすれば、四島を故郷とする人の数は今ではロシヤ人の方が多くなっている。太平洋戦争を起こした罰としてあきらめても良い。それよりも、故郷を失った人々を手厚く補償し、早く、ハワイのように、行きたい人は自由に行き来できるようにした方が良い。

自然保護

 

自然保護は誰のためか。勿論、国民みんなの為である。ところが実際は、しばしば金持ちの為のものに見える。

ブロイラーのように、狭い木賃アパートに閉じこめられていて、遠い山の中でも良いから、せめて兎小屋に住みたいと願っている人々だけが、乱開発反対、自然破壊反対を言う権利を持っている。

高級住宅地に住んでいる人がそれを言うとしたら、お殿様の御狩場を町人共は荒らすな、と言うようなものである。ゴルフ場建設反対も同じである。コンクリートジャングルで働くサラリーマンの月に一度のゴルフ、老人の週一度のゴルフ、広々とした自然の中で、白球を思いきり遠くに飛ばす、それが彼等にとって、どんなに大きな幸せであることか。精神的、肉体的に最良の健康法であり、特に老人に適したスポーツである。

ところが、日本のゴルフ料金は世界一高い。平均的サラリーマンは、月に一度のゴルフのために、千円亭主の小遣いの過半を使い、昼食は、そば一杯ですませている。彼等にとっては、ゴルフは、それだけの価値がある。

ゴルフ人口の増加と共に、今や、月一度のゴルフもむずかしくなっている。二千万人が十日に一度ゴルフを楽しむためには、六千平方キロ、国土の二パーセントが必要である。なぜそれをつくってはいけないのか。一億円もする会員権を持っている人や、社用族は、今のままでも、毎日でもゴルフができる。それなのにゴルフ場がどんどん増え、競争が烈しくなって料金が安くなれば、会員権が値下がりして困る。その上、自然も破壊される。けしからん。

国民の幸せのために必要なゴルフ場建設に、誰がどんな権利があって反対するのか。安い、庶民のためのゴルフ場は、あまり凝ったつくりにせず、できるだけ自然を残し、樹木の多い林間コースとする。クラブハウスは堀立て小屋で良い。わずかの雑草に、目くじらを立てず、農薬は使わない。プレー中でも雑草は抜ける。

ゴルフ場建設は、やり方によっては、すべての開発の中で、もっとも、自然を破壊することが少なくてすむものである。そして、食糧危機が発生したときは、簡単に芋畑になる。このようなゴルフ場を多数つくり、低料金にして、収入のない老人でも気軽にプレーできるようになれば、日本は老人の楽園となる。

自然を保護するということは、自然を天然のまま残すことではない。全く人間の手を加えないのが最良であると言うのは、熱帯のジャングルで生活したことがない人である。

人類は、過去数千年にわたって、自然を、人間が住み易い自然に、改造して来た。天然痘が消滅したとすれば、それは人間が地球を天然痘ビールスのいない地球に改造したのである。

自然保護とは、自然を人間が住み易い状態に保つことである。ゴルフ場は、その条件に適合しているのである。


種の保護

絶滅に瀕している鳥を、焼き鳥にして食べるのは、名画を、たきつけに使うようなものである。 数十万年かかって進化して来た、ひとつの種は、一度絶滅すれば二度と帰って来ない。その貴重さは名画の比ではない。

激烈な生存競争をしている自然の生物達の調和の中で、人類は、進化して来た。今は、それらと遊離してしまった人間の、故郷を懐かしむ心が、自然界の生物に目を向けさせるのであろうか。

人間に寿命があるように、人類にも終わりがある。人類は、今、最盛期を迎えているが、終わりは近い。蝉の幼虫が八年間、土の下で生活して、地上に飛び立ってからは三日で生命を終えるように。人類は、水爆戦争で自滅する程、愚かではないかもしれない。

しかし、知恵と言う禁断の木の実を食べてしまった以上、人類の運命は定まったのである。なぜなら、人類は知恵によって地球の独占者となり、生存競争を終わらせたからである。独占は腐敗と堕落を生む。人間のDNAは急速に劣化して行くだろう。

夫婦で子供を一人しかつくらなければ、一世代三十年として、約百年で出生数は十分の一になる。六百年後には、百万分の一となって、日本人の最後の一人が生まれるだろう。子育てを優遇して人口を保ったとしても、生まれた子がすべて成人する条件では、優勝劣敗の法則が働かないから、人間は弱い醜いものになって行く。

ではどうすれば良いのか。どうしょうもない。それで良いのだ。それは、種を保護しようとする心を、人間が本来的に持っている理由かもしれない。それを説明する。脳細胞は物質であるが、心は物質ではない。認識の客体としての人間は、物質であるが、認識の主体としての人間は、物質ではない。物質以外の何かである。それを心と呼ぶことにする。

動物にも心があるか?チンパンジーは、殆ど人間である。もちろん、心を持っているだろう。では他の猿は?鯨は?イルカは?、順を追っていくと、すべての生物には、心があることになる。更に、ビールスになると、非生物との境界は、はっきりせず、結局物質にも心があることになる。これは当然の結論である。人間の脳細胞も物質なのだから。

鉄を成型し組み立てることで、自動車ができるように、物質である細胞を組織することによって、心の輪郭が、浮かび上がってくるのである。ここで言いたいのは、生命は、ひとつであると言うことである。物質が普遍的なものである以上、物質に付随する「心」も普遍的なものだからである。人間は、死んでも子孫が残れば良いのと同じく、人類は滅びても後継者が育てば良いのである。

そこで次の提案をする。一万平方キロ以上の面積を持つ、山と海を含む天然公園をつくる。周囲は高い頑丈な柵で囲み、人間の侵入を許さず、絶対に人間の手を加えない。但し、できるだけ多くの生物の種を送り込む。この中では、人間に煩はされない、生物間の生存競争が進行するだろう。

限定された数の人間が、この中に分け入り、人類の過去を再体験するのは良いだろう。数万年後のある日、知性を手に入れた動物、たとえば、陸に上がって進化した近視のイルカ達が、柵を破って出てくるだろう。そこに、もし、人間が生き残っていれば、人間を家畜にするかもしれない。それで良い。

我々は、結末よりも過程を大切にし、今現在の束の間の命を、真、善、美、を探求しつつ、楽しく生きることにしよう。

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