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第五章 税務審判所

税関係の紛争は税務審判所が迅速に裁定する。裁判は、陪審制とし、おおらかに行う。

税務裁判の特徴

税は金持ちから、出していただくものである。したがって、脱税は、極悪非道の凶悪犯罪ではない。これに体刑を課すのは、税が支配者による収奪のためのものである証明となる。 民主的裁判では、納税者が敗訴したときでも、破産に至るようなダメージを与えない範囲の罰金を課す。

神ならぬ人間の行う裁判には、間違いはつきものである。納税者が不当に敗訴したときでも、運が悪かった、国に寄付をしたと思ってあきらめようと思える程度のペナルティに留めるべきである。

税率は低くするから、どんぶり勘定が可能であり、判定は陪審員の常識に任せる。一般の裁判と違って、おおらかにやることによって簡潔、迅速に裁判を行うことができる。

陪審制が必要な理由

成文法は、解釈が大事である。どんなに難解な言葉を羅列し、或いはどんなにわかりやすい言葉で、千万言を費やした条文でも、立法の精神とは正反対の解釈をされることを防げない。立法の精神に、あくまでも忠実に解釈しようとする心こそ、裁判官に、基本的に求められるものである。コンピューターに裁判を任せられない理由は、心は入力できないからである。

自衛隊は違憲か?戦後生まれはいざ知らず、新憲法制定のとき中学生以上だった人には、誰にも分かっていることである。

自衛のための戦争が許されるのなら、平和のための戦争も許されることになりかねない。太平洋戦争中、東洋平和のために戦っていると信じていた国民の、どんな理由があっても、もう戦争はいやだ、という、あの頃の国民的合意が、戦力は保持しないという条文になって現されているのである。

それが間違っていたのなら、憲法を改正する以外にない。解釈をねじ曲げることは許されない。一票の価値の平等は民主政治の根幹である。そうは言っても、下三桁まで等しくするなどは、物理的に不可能である。一票の価値の格差は、一・五倍まで、くらいが常識の線であろう。

三倍以上はどうのこうのとか言っているのは、憲法の精神を踏みにじるものである。一・五倍は無理だと言うかもしれないので、次のような案を出そう。まず、二人区以下はつくらないことにする。三人より減るときは、隣接する選挙区の、定数の少ない区と合併させる。同数のときは、接する境界が長い方を選ぶ。線引きの変更はしない。投票日の前日までに、選挙管理委員会は、投票用紙の発行数から定数一人当たりの有権者数を調査する。一票の価値が平均の0・八倍以下、叉は、一・二倍以上の選挙区があったときは、定数を一名増減する。総数が余ったときは、一票の価値が最も大きい区から順に減らす。不足のときは逆にする。

このように機械的なルールを定めれば、総論賛成、各論反対と言うようなことは、できない。こうして、各選挙区の定数を確定する。選挙前に、定数が不明でも、困ることはない。情報化時代の今日、ほぼ正確な定数を、ずっと前から、コンピューターがはじき出すだろう。小選挙区制では、一票の価値の差を小さく保つのは、非常に難しい。線引きが厄介で、合意が得られ難い。複雑な線引きでは、有権者も混乱する等の問題がある。中選挙区制のままでも、共同立候補制度をつくれば良い。同じ政党から二人以上立候補するとき、共同立候補の届出をすれば、合計得票を均等割にして当落を定める。グループ内の順位は、各候補者の得票順とする。

党利党略優先で、民主政治の根底にかかわる大問題を放置している政治家、これを見過ごしている最高裁、信認投票で、このような裁判官の全員に×をつけない国民、結局、日本の民主主義は借り物に過ぎないのだろうか。別件逮捕、という語を聞くと寒気を覚える。逮捕の口実に使われたその法律は、他の事件の捜査に利用するために作られたものではない。立法の精神を無視し、その条文を他の目的に利用する行為は、明らかに違法であり、法を犯して、法を犯したものを裁くことはできない。

元首相を外為法違反で逮捕した。食管法違反でやらなかったのは、それではあまりに見え透いているからで、外為法違反なら、それが食管法違反と同質のものであることが、あまり知られていないからであろう。裁判官は、世論が、沸き立つほど、かえって警戒を強め、世論に抗して法を守るべきものである。世論に流され、法を曲げて、罪人をつくり出す、これはリンチにほかならない。これは独裁政治へ、すぐに通じている道である。

独裁者が独裁者であり得たのは大衆を味方につけ、民衆を熱狂させる、天才的能力のためであったことを忘れてはならない。多くの人は、自分には関係がないと思うだろう。しかし、明日にでも、あなたは、次のような目に会うかもしれない。

制限速度三十キロメートルの道路を、三十キロメートルで走っていたところに、子供が飛び出し、はねてしまった。警官が来て尋ねる。
「何キロで走っていましたか」あなたは答える。
「三十キロです」途端に警官は怒鳴り出す。
「バカヤロー。この道を三十キロで走る奴がいるか、でたらめを言うな!さっきから、ここを通っている車を見ろ、皆、五十キロは出しているぞ」

なるほどその通りだ、ばかばかしいので黙ってしまう。警官は供述書を書き、拇印を押せという。
「私は、制限速度三十キロメートルのところを、時速四十キロメートルで走行していたため、飛び出した子供を避けきれず、衝突し、怪我をさせてしまいました。悪かったと反省しています。」
あなたは、三十キロで走っていたことを繰り返すが、警官は受け付けない。
「そんなことを言っていると、今日は帰さないぞ。これからも、何度でも呼び出す。事故証明がないと保険がおりないよ。子供の治療費はどうなるのだ。よく考えろ」
あまりに態度が悪いので、あなたは言う。
「有罪と決まったわけでもないのに、犯人扱いしないで下さい」
警官は、せせら笑う。
「お前は、何もわかっちゃいない。有罪か無罪かは、おれが決めるのだ。」
これでは、裁判で争うほかはないと、あなたは諦めて印を押す。

次は、検察官に呼び出され、略式裁判の承諾印を押せと言われる。あなたは正式裁判をやりますと言う。検察官は、哀れみの笑みを浮かべて、さとす。
「そんなことをしても、得になりませんよ。印を押しなさい。」
裁判で、あなたは、警官に強要されて供述書に印を押したことを証言する。その警官は、涼しい顔で証言する。
「私はそのようなことは、いっさい言っていません。」
裁判官は判決を下す。
「供述書は、充分信用できる。よって有罪」

それから、どれだけの金銭的負担と、めんどうが降りかかってくるか。救急病院は、保険の限度いっぱいまで、退院させない。過剰診療を続ける。薬害で、子供が死ぬなんてことがないように祈るだけだ。保険が切れると、少しは手加減してくれるが、やはり高額の治療費が、あなたに請求される。

そんなことは被害妄想だと言う人は、想像力の貧困という他はない。少しでも知性を持っていれば、「別件逮捕」の一語を聞いただけで、これらの全部が、一瞬のうちに閃く筈である。いや、庶民はみな、知っている、それが空想ではなく現実であることを。しかし運が悪かったと諦める。そして被害を小さくするために、要領よく立ち廻ることしか考えない。取調中ひどい虐待を受けたという江副さんの証言に、誇張はないことが、なぜ裁判官には分からないのか、不思議である。

任意で取調べを受けた人が自殺するケースが多いが、その裏に何があったのか、わかる人には、わかるのである。警官や検察官を非難しても、しかたがない。彼らは職務を遂行しているだけである。
そもそも、警察官の書いた供述書に、被疑者の判を押させる制度がまちがっている。警察官が書いたものには、警察官の判を押せば良い。被疑者の書いたものは警察官に見せず、直接、裁判所に提出させるべきである。信用してはならないものを信用する、すべて裁判官が悪いのである。

一人の罪人を見逃がさないためには、百人の無実の人を殺してもよい、これは、支配者が人民を治めるのには、最も効率的なやり方である。昔の武士は、疑いをかけられただけで切腹した。それが美徳とされた。それは支配者のための道徳である。日本の司法当局には、この古い糟が色濃く残っている。国民にも残っている。税務当局に収奪の思想が残っているように。

三十年前、無免許運転の裁判があった。上告理由は、安全に運転する能力が証明されている者でも、運転免許が容易に受けられない制度は、自由権を侵害し、憲法違反であると、いうものである。被告の真意は、警察とそのOBの経営する自動車教習所の癒着を、告発することにあった。運転がうまくても、教習所に金を払わなければ、事実上は免許を受けられない仕組みがあった。ある老婦人の話「免許をもらう時、教官に、いちおう合格にしますが絶対に運転はしないで下さい。と言われちゃったわ。」 ところが、三十年間無事故で運転していた人でも、ためしに、教習所を通さずに受験したら、合格する自信はないだろう。

最高裁の判決は、
「運転免許を受けにくくしているのは、道路の混雑を防ぐという理由があるから憲法違反ではない。よって上告を棄却する」
この裁判官は、公用車で出勤する途中、渋滞で困っていたのかもしれない。しかし、この問題は、ガソリン税を上げるとか、都内乗り入れ規制とか、他の対策をとるべきことである。日本の裁判官には、基本的人権がどんなに大切なものか、わかっていないので、このような国辱的判決をするのである。

スピード違反一斉取締、別名「ねずみ取り」、広くて見通しが良く、スピードが出やすい地点で、流れに乗って走って来る車を、一網打尽につかまえる。かって、元警視総監が、私用で運転中、ねずみ取りにかかり、後で、「こんなことは、やめるように」と指示したが、不思議に今でもやっていると、テレビで本人が話していた。

流れに乗って走っている車の間を、牛若丸よろしく、ひらりひらりと車線を変えながら、走りぬけて行く無謀運転、ぴったりと後ろにつけて、警笛を鳴らし、ライトをピカピカさせ、恐がって、あわてて避ける車を尻目に、追い越していく横暴運転が、横行している。何とか、連中を取り締まってほしい。上空から、ヘリコプターで監視し、白バイと連絡を取れば、捕まえられるだろう。だがそんなことをする気はない。

警察を責めても仕方がない。彼らは、最小のコストで、最大の検挙数をあげるという、経済原則に従っているだけだ。悪いのは、立法の精神を無視し善良な庶民に有罪の判決を下す裁判官なのである。長々と、繰り返し書いたのは、税務審判所の裁判では、こんなことは絶対にあってはならないからである。偉い裁判官の、難しい法律の知識よりも、平凡な市民の、常識による判断の方が、はるかに信頼できる。だから、陪審裁判が良いのである。

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