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大山透の人生

私の父大山透は、平成29年その波乱に満ちた生涯を閉じました。ここでは、このサイトの管理人である私が、父の伝記を記します。

私の父、大山透は昭和6年鹿児島で、8人兄弟の次男として生まれました。 透の父(私の祖父)は国家公務員でかなりのエリートであり、裕福な家庭に育ちました。戦争さえなければ、こんなに苦労の連続の人生にならなかったかもしれません。

移民、そして帰国

ある日、透の父は突然当時日本の統治下にあった台湾の役所へと転勤が決まり、透は一家で台湾へと移民しました。

透は台湾の小学校へと通いました。ここまでは透の人生に何ら問題もありませんでした。

ところが昭和16年、突如日本は米国に宣戦布告をしました。そうです、太平洋戦争の始まりです。その後、台湾は激しい戦火にみまわれ、生き延びるられたのが奇跡的だったそうです。時には目の前に焼夷弾が落ちた事もありました。さいわいこの時は不発でした。ちなみに、当時のミサイルは制度が低く、半分近くは不発だったそうです。

昭和20年、透14歳の時、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏しました。透はかろうじて生き延びる事ができましたが、家族とも別れ別れになってしまい、食べるものも住むところもなく、焼け野原をさまよいました。水だけはかろうじてドブ川の水を沸かして飲んでしのいでいたそうです。

透は日本の兵士に食べ物をねだります。しかし、日本の兵士の対応は冷ややかでした。その時透は日本の兵隊に殴る蹴るの暴行を加えられ、気がついたら一人で倒れていたそうです。透はしばらく動く事もできず、その場に倒れていました。

すると、どこか遠くからいい匂いが漂ってきます。肉を焼いた匂いです。もしかして、分けてもらえるのではないだろうか? しかし、また殴られるかもしれません。しかし、当時の透にはそんな事を恐れている余裕はありません。何でもいいので今食べなければ餓死してしまうでしょう。透は必死で匂いのする方向に駆け寄りました。

そこで透が目にした光景、それは、米軍の兵士が豚一頭まるごと直火にかけて焼いていたのです。しかし、戦争が終わったとはいえ相手は敵の兵士です。見つかったら殺されるかもしれません。しかし、空腹に耐えきれなかった透は、目の前の光景を目の当たりにして、兵士に必死に頼みました。

「プリーズ!ギブミー!プリーズ!ギブミー!」
すると、一人の屈強な米軍の兵士が透のところに近づいてきます。またさっきのように暴行を加えられてしまうのでしょうか?透この時死を覚悟しました。しかし、米軍の兵士はにっこり微笑み、そして透に肉の切れ端を差し出しました。それは米軍の兵士達が食べた後の、余りの部分でした。透は必死に食べました。ただ、生きるために。

その後、米軍の兵士たちは、家族が見つかるまで透のことを匿ってくれました。米軍の兵士たちはとても優しかったそうです。透は思いました。
「日本はこんな人たちに戦争をふっかけてしまったのか。なんて愚か事をしたんだ。こんな人達と戦争をしたって、絶対に勝てるはずないのに。」
そうです。当時の日本は、戦力とか核兵器とか、それ以前に、人間としてアメリカに負けていたのでした。

やがて家族と再開した透は、日本へと帰国しようとします。しかし、日本の政府の用意した日本行きの船はなく、少数の密航船があるだけでした。しかし、密航船は激しく定員オーバーしていて足の踏み場もありません。透たち家族は乗るのをやめました。その密航船は日本にたどり着く事なく沈んだそうです。後に透は、「あの時、あれに乗らなくて本当に良かった」と言っていました。

定時制の高校、そして京大受験

透は16歳になり、ようやく帰国を果たします。10年ぶりの日本です。透ら一家は京都にある母の実家に住む事になりました。しかし、裕福だった家庭は見る影もありません。鹿児島の父の実家も、財産のほとんども、あの戦争で失ってしまっていました。透は普通高校に通う資金も、大学に通う資金もありません。学費は全て自分で稼がなければなりませんでした。

そこで、透は昼間は仕事をして、夜間に定時制の高校に通う事になりました。4年後20歳になった透は、大学の入学金がたまり京都大学を受験しました。その時、問題があまりに簡単すぎて、こんな簡単な問題では全員が受かってしまうのではないかと心配したそうです。

実際、透はのちに「平成教育委員会」で出題された灘中学の数学の問題を、テレビを見ながら数秒で解いてしまいます。それも、当てずっぽうやカンとかではなく、ちゃんと解き方まで全部あってました。もしあの戦争さえなければ、平成の時代にはもっと一流企業のエリートコースを進んでいたのかもしれません。

上京、そして就職

24歳になり、透は京都大学を卒業しました。もし今京都大学を卒業していたら、それこそ引く手数多でしょう。 しかし、当時はひどい就職難。大学卒の透ですら採用する企業は1つもはありませんでした。

そんな中、本人が大恩人と語る大学教授が、1つの会社に透を紹介してくれました。それは東京にある小さなセロハン工場でした。

しかし、新幹線もない当時、京都から東京に出るのは大変だったそうです。透は長時間汽車に乗り、東京にやってきました。透は東京のその工場で、研究員として勤める事になりました。

結婚、そして埼玉へ

透は、しばらく川口のアパートからバイクで東京に通勤していました。

やがて1年ぐらいして、食堂でいつものように昼食をとっていた透の隣に一人の女性がやってきて、こう言いました。
「あの、隣よろしいでしょうか?」

その時、透は特に気にしていなかったそうです。しかし、やがてその女性は、お昼休みになると毎日透の隣に来るようになったそうです。 最初は、「他の席も空いているのになぜ?」と思ったそうですが、やがて透はその女性の意図に気が付きました。


その後、透は1年間の交際を経て結婚します。 透は川口のアパートから、北浦和のアパートへと夫婦で引っ越しました。

しかし、やがて子供が生まれ、一家でアパートに住むのはあまりに無理が出てきました。 そこで大宮市(現在のさいたま市見沼区)にローンを組んでマイホームを購入。 一家で大宮へと引っ越しました。 私が生まれたのは、それから4年後の事でした。

会社の倒産、茨城への転勤

それから、仕事は順調に進んでいるかのように思えました。 しかし昭和48年、オイルショックの影響で、透の勤めていた会社は倒産してしまいます。

その後、透の勤めていた会社は大手企業に買い取られ、当時の役員は全員解雇。 さいわい従業員はそのまま大手の会社の社員としてそのまま再雇用されたため、一家が露頭に迷う事態は避けられました。 しかし、透は長く勤めていた東京から、遠くはなれた茨城の工場まで転勤となりました。

しかし、茨城の工業地帯への公共交通機関はなく、従業員はもっぱらマイカー通勤でした。しかし、大宮からでは片道2時間の長距離通勤です。透は毎日往復4時間、マイカーで通勤する事になりました。

妻の死、そして認知症の発症

透は65歳で会社を退職。すでに子供は独立しており、もはややる事は何もありません。長距離通勤から開放された透は、毎日畑作業(といっても、収穫物を売るわけではない)をするようになりました。

その後、透は80歳になりました。ある日妻(=私の母)が体調不良を訴え、病院で検査を受けます。しかし、結果は最悪でした。妻は既に末期がんにかかっており、がんは全身に転移しており、もはや手の施しようがない状態でした。

その3ヶ月後、妻は亡くなります。普段私に涙など一度も見せた事のない透は、この時は泣き崩れてしまいました。その後、しばらくふさぎ込んでいた透は、それから半年ぐらいして、私に毎日同じ質問をするようになります。「おい、母さんは?母さんは今日はどこ行ったんだ? 母さんはいつ帰ってくるんだ?」 ここでいう母さんとは、自分の母親の事ではありません。そうです。自分の妻の事です。

最初は私も都度「もう死んだよ」と答えていたのですが、 あまりにも毎日同じ質問をするので、そのうち「ちょっと買い物行ってる」とか「もう帰ってくる」と答えるようになりました。結局、何を答えようと10分したら質問した事自体を忘れてしまうため、どう答えようと結果は変わりません。だったら、母が死んだ事を何度も伝え、その都度父に辛い思いをさせる事もないだろうと判断しました。

眠るような最期

それまでずっと父の世話をしていた母が亡くなり、私一人では父の世話をする事ができなくなりました。

そこで、施設に入居してもらう事になりました。 この時、本人にはもう、自分が施設に入居している事も認識できなくなっていたでしょう。


86歳になった透は、ある日食事を喉につまらせて救急搬送されます。その後、病院では詰まったものは吸引したのですぐに退院できると言われました。しかし、1ヶ月経っても2ヶ月経ってもいっこうに退院の話がありません。医者に聞いてみたところ、あの窒息で肺炎を誘発しており、当分退院はできないという話でした。

そして、10月のある日、いつものように看護婦が体温を測りに来たところ、既に冷たくなっていたそうです。 その直前に巡回の看護婦が目視で確認したところ、特に異常もなかったという話でした。

父は誰にも気づかれず、人知れずこの世を去りました。 ずっと母に会いたがっていた父でしたが、これからはいつまでも一緒にいることでしょう。

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